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「大切にしたい、継承したい日本の文化」
石川県立輪島漆芸技術研修所

雨上がりに厳しい暑さが加わり、とても秋らしからぬ9月初旬。元日に発生した能登半島地震から8か月、今も至る所に爪痕が残り、見る者をして胸が締め付けられない人はいない能登・輪島。この地に、敢然として「ここから絶対に離れない」との想いで伝統の技を守り続ける“道場”がある。

「石川県立輪島漆芸技術研修所」である。1967(昭和42)年に開設し、重要無形文化財保持者(人間国宝)の技術伝承者養成機関として、長きにわたり漆芸文化を支えてきた。

この度は、大きな被害を受けながらも、「後世に継承していく」生き方を貫かれる研修所の方々を訪ねた。

 

 

研修所を支える諸先生方

 

重要無形文化財「髹漆」保持者で研修所所長の小森邦衞先生

重要無形文化財「髹漆」保持者で研修所所長の小森邦衞先生

  次長の村本潤也さん

次長の村本潤也さん

  教務課長の内島一郎さん

教務課長の内島一郎さん

 

 

ご質問① 地震発生当時のお気持ちをお聞かせください。

 

村本さん

私は、一面焼け野原となった「朝市通り」のど真ん中に自宅がありました。本震が起きた時、とても立っていられませんでした。

県の施設の職員ということですから、避難所に駆け付けないといけない役割があり、その場に向かいました。自宅がある方向に目を向けると、火の手が上がっています。元日ということで、どの家庭も車のガソリンは満タンにしていたと思います。

15分、30分と経つたびに、どんどん自宅に向かって火が進んでいるため、諦めました。

 

余談ですが、実は、火事の被害を受けたのは二度目なんです。小学5年生の時、同日同時刻同場所で、隣家の火が移り火事になった経験があります。火事は一たび起これば、とても近寄ることができない。枕の一つも持ち出せません。その経験があったから諦めました。

火災では何もかも無くなります。無いところに行っても仕方がありませんから、自宅があった場所には一度か二度しか行っていません。

仮設住宅に入らせてもらいましたのは3月の終わり頃でした。それまではずっとこの研修所で寝泊まりしました。お風呂にもずっと入れませんでした。しかし、入れないものは入れないですし、入れないというだけですから、気にすることはありません。少し後ずさりする人もいましたが、「私も被災者の一人です」と、事実ですから、普段通りにしていました。

沈んでいても仕方がありません。「一日一笑」です! 1日1回私が笑うということではなく、私が笑わせるのです!(笑)

課長の内島さんが、(1月)4日から所に寝泊まりするようになりました。彼も被災者です。

 

内島さん

私は、富山県の高岡出身で、地震発生当時、実家におりました。

1月1日、2日は、報道されるテレビを見ながら、とにかく研修所に行かねばと思いました。

周りの人たちから止められながらも、10時間かけて研修所に向かいました。4日、集まることができる職員がこの研修所に集まりました。次長の村本さんとの生活はこのときから始まりました(笑)。自宅は居住不可の状態になりましたので、研修所に寝泊まりさせてもらいました。すると、所長が毎日来られるんです。これには驚きました。

 

ちなみに、自宅の様子を見に、一度、リュックを背負って、雪が降る中、山道を通って1時間半かけて徒歩で向かいました。村本さんには迷惑をかけてしまいましたが…。

 

小森先生

元日の15時頃、次女家族が帰った後、16時10分頃、最初の揺れが来ました。その時の被害は殆ど無く、その後に大きな揺れが来ました。妻とテーブルの下に潜り込みましたが、テーブルの脚が踊っていました。私の後ろの本棚から殆どの本が落ちてきました。その夜は、旧市役所の4階に避難しましたが、鉄骨の軋む音は異様な音で怖さをしみじみ感じました。

2日は7時に避難所を出て、妻の実家(空き家で全壊)、石川県輪島漆芸美術館、研修所と見て廻り、自宅に帰り、足の踏み場やベッドに横になれるように片付けて、その夜から自宅で休みました。余震の度に布団を頭から被り、それでも寝られるものですね。

4日から美術館の館長、研修所の所長として勤めに出ました。特に研修所は1月中はほぼ毎日出かけ、職員と打ち合わせしながら、所内の片付け、今後の事など話し合いました。話し合いの中で全員が今年中の授業再開は無理との意見、そこで私の意見は卒業生17名だけでも卒業証書を渡したいと思い、市外の大学等に1教室お借りしたいと申し込み、快諾を頂き、それぞれの専門科別に生徒、講師を送り込むことに致しました。

 

村本さん

ただ、必要な資金がありませんでした。生徒を送り出すための交通費、生活するための住居などの資金です。どうしたらいいのか、とても頭を抱えました。

 

小森先生

そこで、「輪島漆研被災研修生見舞金」という口座を開設して、研修所を心配して連絡下さった方、私の友人知人、また俳句仲間、お客様にお心を募りました。本来ならば役所ですので順序を踏むべきですが、時間との戦いとの思いが強く、私の独断で動きました。

私のお願いした方々にも拡散をお願いして何とか資金が集まり、無事に17名の内14名の生徒が環境の変わった中で良く頑張り、3月中に仕上げることができました。ただ私の独断で行なったことで迷惑をお掛けした方々に心よりお詫び申し上げねばとずっと心の中に引っかかっていました。

お蔭様で無事、卒業制作が仕上がり、5月7日に卒業式と卒業制作展が金沢で行なうことができました。ご迷惑をお掛けした皆様方には良い報告ができたと安堵いたしました。ただ研修生は8割から9割までが市外からで災害に遭い、住む場所が無い状態で「仮設寄宿舎を建てられないか」難しい事だと知りながら、このままだと研修所が輪島から無くなるとの思いが強く、関係行政にお願いに回りました。

研修所は輪島塗の後継者育成の場所ではありませんが、現在の輪島塗を支えている職人さんの半数以上は研修所の卒業生で、5年後、10年後、20年後の事を考えると輪島のためだけではなく、日本の漆芸を考えると、此処で閉じるわけにはいきません。漆芸を志す若者がいる限りやり続けていかねばと思いました。

 

村本さん

金沢に移ろうという話も出ましたが、所長が「絶対にここから離れない。離れてはいけない」と言いました。その熱意が今の研修所存続につながっていると思います。

 

小森先生

そんな時、巡り合うものがあるのですね。驚く出会いが続きました。良いか悪いかは別として、先頭に立ってやってきたからだと思います。

 

 

ご質問② どのような教育信念をお持ちでしょうか。

小森先生

私は1月1日時点、(重要無形文化財「輪島塗」技術保存会)会長職を10年目、美術館館長、研修所所長はそれぞれ4年目でした。館長職は3月末、保存会は6月総会で辞することは決まっていました。また研修所では講師、主任講師、そして今は所長です。その間、11人の弟子を育てました。

教育信念と言ってもそんなに深く考えていません。ただ研修所の生徒と弟子では教える事は少し違うと思います。漆芸を生業として生きていく事を真剣に考えている子には敢えて語気強めてもよい子、褒めて褒めて育つ子、そこの見極めが大切だと思います。そこを見定めて指導する事が一番大事な所と思います。

私は、この研修所の二期生でして、重要無形文化財「蒔絵」保持者の松田権六先生と出会いました。この研修所を輪島に建てようと提案した方です。

当時、若かったからでしょうか。松田先生の家に、アポも取らずに「ごめんください」とよく訪ねました。松田先生は、相手によって、話し方を変えられる人でした。私などガキに話す時と、職人同士で話す時とは内容がまるで違いました。私をよく受け入れてくださったなと思います。周りからは「人間国宝だよ!? お前、すごいな」と、つまり、呆れられていました(笑)。

 

学ぶ過程で壁にぶつかるでしょう。この壁を“見える”子にするのが私たちの役割だと思っています。ぶつかる壁には、分厚いものもあれば、紙のように薄い場合もあります。薄いものは本当に薄いです。これらの壁を「今、目の前に壁がある」と見える子がいるのです。見えなければ乗り越えられません。

壁を見えるように教え、そしてその壁を乗り越えられるように育てることが大切だと思っています。

「髹漆是国技也」という言葉があります。漆芸は国技です。絶対に継承していかなければなりません。

 

村本さん、内島さん

所長は、松田先生のDNAを継承していますね(笑)。

 

 

研修生の方々

 

 

研修生の皆さんは、「地震後、伝統ある漆芸がいかに大切かを改めて実感しました」「漆を早く触りたい。作り続けたい。誰かに届けたい」とお話しくださった。自宅が全焼した研修生もおられる。凄惨な出来事を乗り越え、休止が続いていた授業は10月1日より再開予定である。漆芸の継承という志をさらに大きく抱き、研修生は授業再開を心待ちにされていた。

12月1日には、新入生15名を迎え入れる予定である。また研修生のために、寄宿舎の建設も予定されている。

 

地震後、逆境を乗り越え、一歩一歩、明るく前進される研修所の方々の志に胸打たれた取材陣は、冷めない熱を覚えながら研修所を後にした。