「あなたの夢は何ですか?」と聞かれて答えあぐねたこと。
「夢を持ちなさい」と子どもに言いながら(実際どうやって持たせればいいのかな?)と悩んだこと。
きっと多くの人が経験しているはず。
でも本当は、そんなにカタく考えなくていいことなのかもしれない。
例えば、好きな漫画に憧れて自分もそうなりたいと思うような、すてきな夢の見つけ方もあるのだから。
その1人、田臥勇太さんも言っている。
「好きだなと思うことがあったら、とりあえずやってみて」。
そんな「好き」に支えられて夢を叶えた7人に聞く、それをくれた「物語」と、叶えたその先の話。


アメリカ(NBA)を目指すときに思っていた。「漫画に負けてらんねえ」って
田臥 勇太 ×『SLAM DUNK』

田臥勇太さんの画像1
田臥さんは自身のことを、天才だとも努力家だとも思っていないという

〈プロバスケットボール選手・田臥勇太さんの履歴書〉

1987年/小学2年生でバスケットボールを始める。
1990年/『週刊少年ジャンプ』で『SLAM DUNK』の連載が始まったのとほぼ同時期に、小学5年生で「プロの選手に絶対なる!」と"断固たる決意"をする。
1995年/第25回全国中学校バスケットボール大会に出場。チームを3位に導き、自身も大会ベスト5に選出される。同年、テレビCМに出演し、NBA(全米プロバスケットボール協会)ニューヨーク・ニックス(当時)のパトリック・ユーイングと共演。
1996年/『SLAM DUNK』の山王工業高校のモデルとされるバスケットボールの名門、秋田県立能代工業高校に入学。スタメンとして3年連続で高校総体、国体、全国高校選抜の3大タイトルを制覇。
2000年〜/アメリカ留学、JBL(バスケットボール日本リーグ機構)での活躍を経て、2004年、NBAフェニックス・サンズと契約。『SLAM DUNK』のその先にあるものを体現するかのように、日本人初のNBAプレーヤーとなる。

今でも決意の瞬間をはっきり覚えている

『SLAM DUNK(スラムダンク)』の作者をして「とんでもない男ですよ」「漫画家泣かせですよ」と言わしめた、日本バスケットボール界のレジェンド・田臥勇太(たぶせゆうた)さん。コートに立つ姿には、紛れもなく"王者の風格"が⋯⋯。だが、ひとたび口を開けば、その温かな人柄が伝わってくる。

「小学生のころ、友達と遊んでいる中で『SLAM DUNK』の存在を知りました。当時バスケットボールの漫画は珍しかったですし、不良少年である桜木花道(さくらぎはなみち)と桜木軍団が⋯⋯ってところから始まるので、『ここからバスケにどう結びついていくんだろう?』と思ったんですが、キャラクターごとにバッシュ(バスケットボールシューズ)が違ったり、晴子(はるこ)ちゃんとの恋物語があったりと、僕らがハマる要素がちりばめられていた気がします。なかでも大きかったのは、僕の出身地である神奈川県が舞台だったこと。体育館一つとってみてもどこがモデルか大体わかるんです」

田臥さんが「バスケットボール選手になる!」と決めた瞬間も、驚くほど早かった。

「(『SLAM DUNK』の)"断固たる決意"じゃないですが、小5のときに実業団リーグの試合を見に行って、『大人になってもバスケをやろう』と決意したのを、今でもはっきり覚えています。ちょうど『SLAM DUNK』を読み始めたころでした」

田臥勇太さんの画像2

読み返すたびに変わる心に響く箇所

〈履歴書〉にもある通り、中学でのCM撮影をきっかけに初めてアメリカへと渡り、やがて日本人初のNBA選手となった田臥さん。しかし、なんとその裏には漫画のキャラクターへの対抗心すらあった⋯⋯!というのだから、漫画の持つパワーを感じずにはいられない。

「花道の"終生のライバル"流川(るかわ)や山王の沢北(さわきた)がアメリカを目指すとなったときに、『自分も彼らに負けたくない』と思ったことは、当時の僕の一つの大きなモチベーションになっていたと思います。『オレがやってやる!』『漫画に負けてらんねえ』ぐらいのマインドで臨んでいました(笑)」 

作者が「漫画家泣かせ」と表現したのは、まさに現実が漫画の先を走った証しなのだろう⋯⋯。そして、大人になった今、田臥さんと『SLAM DUNK』との向き合い方はさらに深まっている。

「読み返すたびに心に響く箇所が変わるんです。まさにバイブルですよね。最近グッときたのが『技術も気力も体力も、持てるもの全てをこのコートにおいてこよう』という安西(あんざい)先生の言葉。シンプルだけど、いかに1日でも多く実行に移せるか。プロの自分にもすごく深く響いてくるんです。

あと、豊玉戦のハーフタイムに、目を怪我した流川が『今日もあれやりましょーよ。オレたちは(強い)ってやつ』って言う場面があったと思うんですけど、実際に今シーズン、僕の後輩が『一回みんなで集まりません?』と言ってきて、おお、偉いなとうれしくなって。ああいう言葉は、真剣に向き合っていないと出てこないですから。漫画と同じようなシチュエーションが現実にも起こるんです。『SLAM DUNK』の世界と現実が混ざり合って行ったり来たりしている感覚とでもいうか。たまにベンチで試合を見ていて、相手チームや観ている方は『絶対入らねぇよ』と思っているだろう局面があるんですが、それこそ流川が三井(みつい)にかける『そんなタマじゃねえよな』という言葉がポンと浮かんできて、次の瞬間、本当に仲間がシュートを決めてくれるんです」

田臥勇太さんの画像3
翌日に試合が行われる日環アリーナ栃木での練習の後に

ふとした瞬間に訪れる原動力となるもの

今回の撮影中、たまたま通りかかった子どもが、憧れのスター選手に気づいて「あっ!」と声を上げた瞬間、田臥さんの表情が柔らかくなった。そうした出来事こそ、彼の原動力になっているのだという。

「うれしいのは、本当にこういった小さなことなんです。ありがたいことに日々普通に生活を送っている中で、ふとあんな瞬間が訪れることがあって。いろんな刺激やアイデアをもらえます」

田臥勇太さんの画像4
憧れの人に気づいて驚く子どもに手を振る田臥さん

思わず、「"皆の憧れとして輝くこと"が田臥さんの使命でもありますね!」と声をかけると、「いや違います」ときっぱり。

「もちろんそう思ってもらえたらうれしいですが、輝いているかどうかは周りが判断することであって、『輝かなきゃ』とは思わないです。自分がコントロールできることだけに集中する、というのが僕の中で大事にしていることなんです。だからこそ、『まだ辞めたくない!』につながってくるんです」

最後に、今夢を探している人たちへのメッセージを尋ねると、実に田臥さんらしさがにじむ言葉が返ってきた。

「無理をしないことじゃないですか。『見つけなきゃ』とか、『夢を持たなきゃ』とか思わずに。好きだなと思うことがあったら、とりあえずやってみて、『やっぱり違ったな』でもいいと思うんです。無理せずいろんなものに出会っていく中で、何か見つけてくれたらうれしいです」

『SLAM DUNK』
Ⓒ井上雄彦 I.T.Planning,Inc.
田臥勇太

田臥勇太

たぶせ・ゆうた 1980年生まれ、神奈川県出身。バスケットボールの名門、秋田県立能代工業高校、ブリガム・ヤング大学ハワイ校を経て、2002年、スーパーリーグのトヨタ自動車アルバルクに入団しJBLデビュー。04年にはNBAのフェニックス・サンズと契約し、日本人初のNBAプレーヤーに。08年の日本復帰後はJBLのリンク栃木ブレックス(現・宇都宮ブレックス)で活躍を続け、25−26シーズンで在籍18シーズンとなった。17年には、日本のバスケットボール選手のパイオニアとして、第8回日本スポーツ学会大賞を受賞。

photograph by 平岩享  text by 渡邊玲子

小学校の卒業アルバムにも「囲碁のプロになりたい」って書いていました
小野 綾子 ×『ヒカルの碁』

小野綾子さんの画像1
「”憧れの吉原由香里先生と対局する””日本中に囲碁を普及する”という、大きな夢がまだ残っています(笑)」(小野さん)

〈囲碁棋士・小野綾子さんの履歴書〉

2002年/友達の母親が貸してくれた『ヒカルの碁』を読み、キャラクターの情熱や物語に心を動かされ、初めて触れた囲碁の世界に魅了される。その後、独学で囲碁を学びながら地元の碁会所で実力を磨き、半年でアマチュア初段に。
2006年/年齢制限の壁に悩むも、家族の支えとヒカルの物語に励まされ、入学後わずか2カ月で高校を中退しプロを目指す。
2016年/年齢制限ギリギリの26歳の誕生日の19日前に条件を満たし、念願のプロ入りを果たす。

“墓”じゃなくて囲碁の”碁”だった!

小学6年生の夏休み、友人の母から「面白いから読んでみて」と手渡されたのが、『ヒカルの碁』の1~3巻だった。この運命の出会いが、小野綾子(おのあやこ)さんの人生をガラリと変えることになる。

「最初、『ヒカルの"墓(はか)"』と読み間違えまして⋯⋯(苦笑)。おもしろいのか!? と戸惑いつつもせっかくなので読み始めたら、"墓"じゃなくて囲碁将棋(いごしょうぎ)の"碁"か! と分かり、ホッとしました(笑)。主人公のヒカルの前に現れた平安時代の天才棋士(きし)・藤原佐為(ふじわらのさい)が、『1000年経ってもまだ打ちたい』と思うくらい囲碁っておもしろいものなのか!私もやってみたいと思ったんです。未知の世界だったからこそ心惹かれたのかもしれません」

入門書を買い、祖父母の家の押し入れにあった古い碁盤をもらってきて、独学で囲碁を学び始めた小野さん。すぐにそれでは飽き足らなくなり、タウンページで見つけた近所の碁会所(ごかいしょ)へ。その積極性の裏には、ヒカルと同い年であることによる親近感もあったという。

「小6のヒカルが何も知らないところから夢中になってプロを目指していくのを見て、『それなら私もできるんじゃない?』って本当に単純に思ってしまったんです」

小野綾子さんの画像2

プロを目指すため高校入学後2カ月で中退

授業中も囲碁の本を読みあさり、わずか半年でアマチュア初段になった小野さんだが、早々に現実の厳しさを知ることになる。プロの登竜門である院生の受験資格は14歳以下。今からではとても間に合わない。

「『院生にはなれないみたい』と母に言ったら、『東京に行って聞いてこよう』と背中を押してくれて。日本棋院(きいん)で"外来という道がありますよ"と言われた瞬間、『じゃあ、私は外来でプロを目指そう!』と決心がつきました」

だが、次に小野さんの前に立ちはだかったのは、想像を超える急な環境の変化だ。

「高校に入学後、入段の年齢制限が30歳から23歳未満に下がったと知って⋯⋯。本当にショックでしたね。学業と両立するのは到底難しいけれど、辞めたとしてもプロになれる保証はない。悩みましたが、母が『本当にプロになりたいなら、高校をやめる? 高校の勉強ならいつでもできる。プロの勉強は今しかできない』と言ってくれて、父も1日考えた後『本気でやりたいなら応援するよ』と。『ならば!』と私も覚悟を決め、2カ月で中退して囲碁一本に。プロを目指す環境としては厳しかったのですが、私の地元、新潟県トップアマの田中豊(たなかゆたか)先生が、『一緒に頑張ろう!』と毎週末にマンツーマンで指導してくださいました。まさに佐為のように(笑)」

小野綾子さんの画像3
真剣勝負の世界に身を置いているようには見えない柔らかい雰囲気の小野さん。「のんびりした性格だったんですけれど、負けず嫌いではあったのかも(笑)」

本気で努力した時間は絶対無駄にならない

そんな田中先生の指導と共に支えになったのは、『ヒカルの碁』に登場する伊角慎一郎(いすみしんいちろう)だった。

「"精神力は生まれつきじゃなくて修得できる技術だ"と言われる場面があって、すごく励まされたんです。私もメンタルが弱かったので、伊角さんが克服していく姿を読むたびに『私も頑張れば強くなれる!』と思えました」

外来試験6連敗、関西棋院も突破できず、特別採用も閉ざされ⋯⋯それでも小野さんの歩みは止まらない。

そして迎えた最後のチャンス。関西棋院の院生制度が緩和され、26歳の誕生日まで挑戦できる道が開かれたのだ。

「もうこれが正真正銘最後だと思って、大阪に部屋を借りて一人暮らしをしながら毎週末試験を受けました。院生はみんな年下、才能の塊のような子ばかり。途中から成績が伸び悩んで、苦しかったです。でも26歳の誕生日の19日前、8月20日にやっと12勝4敗になりまして。本当に滑り込みでした」

長い闘いの時間に寄り添い続けた『ヒカルの碁』について、小野さんはこう語る。

「私に夢を持たせてくれた物語です。夢を持つと人生がさらに輝くというか、毎日が楽しくて仕方なかった。そして夢が叶わなくても、本気で努力した時間は絶対に無駄にならない。かけがえのない人生の財産になり、後で必ず自分を助けてくれると思います」

小野綾子

小野綾子

おの・あやこ 1990年生まれ、新潟県出身。小学生のころより囲碁の棋士を目指し、2016年、26歳でプロ入りを果たす。囲碁入門番組『これが碁やねん』に生徒役で出演中のほか、関西棋院こども囲碁道場、なんば囲碁センターなどでの指導を通して囲碁の普及にも務めている。

photograph by 稲森寛  text by 渡邊玲子

劇中のセリフ「男の仕事の8割は決断だ」それって今の仕事がまさにそう!
野口 尚人 ×『仮面ライダーW』

野口 尚人さんの画像1
対象者を尾行中の野口さん。バレそうになったときのために、着替えやサングラス、帽子は常に持ち歩いている

〈探偵・野口尚人さんの履歴書〉

2017年/土木現場で現場監督として勤務。
2022年/探偵を目指し、転職。
2023年/株式会社MRに就職し、現在に至る。

Q:『仮面ライダーW』にハマったポイントは?
A:探偵である主人公が、クライアントのためにいろいろなことを調べたり追跡したりする姿を見て、人のためにこれだけ動ける人がいるってカッコイイなぁと、子どもながらに思いました。

Q:探偵を目指したきっかけを教えてください。
A:前職に飽きてきたのもあって、何かおもしろい仕事はないかなと探していました。そんなとき、ふと中学の卒業アルバムを開いたら、「探偵になりたい」って書いてあったんです。それを見て、そうだ、探偵をやってみようと思いました。

Q:好きなシーンやセリフは?
A:劇中、「男の仕事の8割は決断だ」というセリフがあるんです。それって今の仕事がまさにそうで。尾行中、次のアクションに迷ったら見失ってしまうかもしれないので、そこに一番神経を使います。

Q:夢を叶えた今、どんなことを思っていますか?
A:探偵になっていなかったとしたら、前職の現場監督を続けていたと思いますが、そのころは毎日イヤイヤ職場に向かっていました。今はどんなに張り込みがキツイ現場でも行くのが楽しみなんです。困っている人の役に立っている、そんな自分にも満足しています。

『仮面ライダーW(ダブル) VOL.1  二人で一人の探偵ライダー!』 DVD 3,080円(税込) 発売・販売:東映ビデオ ©2009 石森プロ・テレビ朝日・ADK・東映
野口尚人

野口尚人

のぐち・なおと 1997年生まれ、神奈川県出身。土木関係の工事現場で現場監督として勤務。部屋の掃除中、たまたま開いた中学時代の卒業アルバムに「探偵になりたい」と書いていたのを見つけたことがきっかけで、探偵を目指すことに。

MR探偵事務所(株式会社MR)
https://www.tantei-mr.co.jp/
2003年創業、23年目の総合探偵社。浮気・不倫調査を中心に、素行調査、行方調査、企業調査などを手がける。東京都新宿区にある本社のほか、全国14拠点で相談対応を行い、調査後の対応まで見据えた支援体制が特徴。調査結果をもとに、依頼者がその後どのような選択をするのかを重視し、調査員と相談員が連携して対応する「カウンセラー制度」を導入。弁護士と連携した証拠収集・報告体制も構築。メディアへの出演・取材協力も多数行い、探偵業界や夫婦問題の解説などを通じて、一般の方向けの情報発信にも力を入れている。

text by 谷美樹

武蔵野先生がくれた"最後の宿題"があるからまだまだ夢は終わらない!
倉嶋 彪真 ×『灼熱カバディ』

倉嶋 彪真さんの画像1
「『灼熱カバディ』の中に出てくる”世界組”って単語にとにかく憧れた」と言う倉嶋さん。 作者の前で読み上げた感謝の手紙の締めはもちろん「”リアル世界組7番”倉嶋彪真」だった!

〈カバディ日本代表選手・倉嶋彪真さんの履歴書〉

2016年/高校3年の冬、連載中の『灼熱カバディ』に出会ったことで、鬼ごっことドッジボールを融合させたようなインド発祥のこのスポーツの魅力を知り、いきなり同級生とチームを組んで始める。
2017年/大学入学後、有志を募ってチームを作り、本格的にカバディに熱中していく。
2023年/コロナ禍のため1年延期となった"アジア版オリンピック"とも呼ばれる4年に一度のアジア競技大会に日本代表として出場。"『灼熱カバディ』をきっかけに競技を始めた選手として初の日本代表"となる。
2026年/日本チームの主力として活躍を続け、現在、9〜10月に名古屋で開催されるアジア競技大会に向けて邁進中。

「山あり山あり山」で”谷”がなかった!

「それまでカバディというスポーツの存在すら知らなかったんですけど、読み進めていくうちに、これめちゃくちゃおもしろいな!と夢中になって。それで、道具もお金もかからないからオレらでやってみない?みたいなノリで、『灼熱カバディ』を僕に薦めてくれた友達と、もう一人、教室で勉強していた同級生を誘ってカバディを始めたんです」

後に日本代表となり現在も日本のカバディ界を背負って立つ倉嶋彪真(くらしまひゅうま)さんが、高校3年のときの出来事だった。驚くことに、大学受験を目前にひかえての(もちろん同級生たちも!)。
そこからは、山あり谷ありならぬ、最初のうちは「もう山あり山あり山!」な破竹の快進撃。そうして2023年開催のアジア競技大会で日本代表に選ばれ、カバディを始めたときに掲げた夢──"世界組に入る"を叶えた。

「なのでそのころは、主人公の宵越竜哉(よいごしたつや)に共感する部分が多かったかもしれません。カバディを始めた後すぐに覚醒したところや、勝つことに貪欲なところが特に。『勝つための最善』なんてめっちゃいい言葉だな!とも思っていましたし。でもその後、なかなか試合で勝てない経験を重ねていくうちに、脇のキャラクターたち⋯⋯言ってみれば"凡人"たちの存在が沁みてきて、自分を重ねることが多くなっていったんです」

倉嶋 彪真さんの画像2

それでもオレ、続けているな⋯⋯

そのうちの一人、「ぜんぜんメインではないキャラクター」の大山律心高校カバディ部部長、大和鉄雄(やまとてつお)の話を絡めながら、自問自答してきたことについて、倉嶋さんは熱く語ってくれた。

「"みんな、このスポーツを、一番になれそうだから、センスがあるからみたいな理由でやっているのでは?"という話が、大和関係で出てくるんですが、自分も『今うまくいっているから熱中できているだけなんじゃないか?』と思うようになっていた時期があって。いや、オレはただ好きだからやっているんだ!って否定したかったんですけど、しきれない自分がいたんですよね。でもその後、アジア競技大会で負け、24年のバングラデシュカップも全敗して。それに今、国際大会での個人成績も10連敗中なんですが、でもオレ、続けているな⋯⋯とふと思って。そのとき大和の話を読み返してみて、やっぱり自分の核にあるのは『好きだから』っていうことなんだ──と確信することができたんです」

きっかけは意外とあるし夢は一つじゃなくてもいい

そんな話を聞いていると、倉嶋さんにとって『灼熱カバディ』は、夢をくれただけではない、その後もずっと並走してくれたお守りのような存在なのだろうなと思う。そのお守りも、24年7月にとうとう完結。これを受けて25年2月に作者の武蔵野創(むさしのはじめ)さんを招いて「漫画『灼熱カバディ』感謝祭」が開催されたのだが、その際、「私の原点であり、人生です」と読み上げた倉嶋さんの感謝の手紙も熱かった!

「漫画では、最後の巻のエピローグのあたりで、主要の強いヤツらがプロカバディに行っているんです。そこでエキシビションマッチをやるんですが、その会場も今の日本では絶対用意できないようなスタジアムで。つまり、日本のカバディの競技力がめちゃくちゃ上がった世界線の話で終わっている。これ、自分の中では、武蔵野先生からの最後の宿題かなと感じていて、早く漫画に追いつかなきゃって思っています」

夢が叶ったその先で、『灼熱カバディ』はまたも倉嶋さんに夢を与えたのだ! いち選手としてだけではない、日本のカバディ界全体を見据えてのこの発言にそんなことを思いつつ、少々気になっていた俗な質問も向けてみた。「今、生活はどのように?」

「もちろんカバディでは食っていけないので、まったく関係のない仕事をしています。あと、実は今、予備校にも通っていて。大学1年のときに就きたいと思っていた職業があったんですけど、全ての時間をカバディに使っちゃったので(笑)。カバディを続けつつ、その仕事ももう一度目指してみようと思っているところなんです」

この言葉に、改めて感じた。追いかける夢は、なにも一つでなくてもいいのだな、と。
「僕をカバディ人生に導いてくれたのが漫画だったように、入り口は何だっていいし、そういうきっかけって意外とあると思っていて。それを頑張って見つける必要はないけれど、でも探すことは諦めちゃいけないなと。これ、自分にもいつも言い聞かせているんですよ」

『灼熱カバディ』の画像1
「水澄京平というスポーツなんかやってこなかった元ヤンキーが、ずっとカバディで頑張ってきた人間を倒せるのか——?というこのシーンが、韓国のスター選手、ジャンクン・リーと対峙して技をきれいに決めたときに重なって。その瞬間、水澄みたいにめっちゃ吠えてました」(倉嶋さん)
『灼熱カバディ』の画像2
Ⓒ武蔵野創/小学館
倉嶋彪真

倉嶋彪真

くらしま・ひゅうま 1998年生まれ、千葉県出身。学生時代に柔道などはやっていたが、カバディと出会い、初めてスポーツにハマる。始めるやいなや2018年の第3回チャレンジカップ2位を皮切りに活躍を続け、19年、第4回チャレンジカップでは優勝、MVPを獲得。国外の大会でも、日本代表として活躍を続け、23年にはアジア選手権大会、杭州アジア競技大会に、24年にはバングラデシュカップ2024に出場。また直近では、25年11月に行われた第35回全日本カバディ選手権大会で準優勝を飾った。

photograph by 平岩享  text by 塚田泉

笑顔にすることも、勇気を与えることもできる。美容師ってすごくいい職業だなって思います
髙﨑 葵 ×『ビューティーポップ』

髙﨑 葵さんの画像1
ブリーチカラーやデザインカラーが髙﨑さんの得意分野

〈美容師・髙﨑葵さんの履歴書〉

2003年/『ちゃお』で『ビューティーポップ』の連載スタート。読むうちに、それまでお花屋さんになりたかった夢が美容師に変わる。
2010年/中学生のころから体育祭や文化祭、地域のイベントなどの際に友人のスタイリングを。
2016年/美容師の専門学校を卒業後、難関の有名サロンPEEK-A-BOOに入社。
2020年/アシスタントを経てスタイリストデビューし、夢を叶える。

Q:『ビューティーポップ』にハマったポイントは?
A:主人公の綺里が通う高校には「S・P(シザーズ・プロジェクト)」という美容サークルがあって、恵まれている子をさらにきれいにしていくんですが、綺里は自分に自信がなかったりする子のことをきれいにするんです。「自信を持たせるためにきれいにする」というところがいいなと思っていました。

Q:美容師を目指した決定的な理由を教えてください。
A:なりたいと思っていた期間が長いので理由は一つではないんですが、美容院に行く前のわくわく感や切ってもらった後のキラキラした気持ちを重ねるたびに、「美容師になるぞ!」という思いが強くなっていったんだと思います。

Q:その夢を叶えるまでにしたつらい経験は?
A:意外とない、かな(笑)? 好きなことをやれていたので。でも、綺里とは違って不器用なので、数をこなすなど努力は重ねました。

Q:叶えた今、どんなことを思っていますか?
A:「私が魔法をかけてあげようか?」という綺里のセリフの通り、美容の施術って、それまでの自分を変えることのできる、本当に魔法のようなものだと思うんです。そんなすごい職業に就くきっかけの一つとして、『ビューティーポップ』に出会えたことに感謝しています。

髙﨑葵

髙﨑葵

たかさき・あおい 1995年生まれ、神奈川県出身。早稲田美容専門学校を卒業後、2016年にPEEK-A-BOOに入社。現在はPEEK-A-BOO銀座並木通りに勤務。

text by 塚田泉

やっぱりドラマだな(笑)、と思う部分もありつつ人のために何かしたいという気持ちは同じだなと
新宅 若葉 ×『ファイアーボーイズ 〜め組の大吾〜』

新宅 若葉さんの画像1
救助訓練中の新宅さん

〈消防士・新宅若葉さんの履歴書〉

2011年/大学に入学し、スポーツ健康学を専攻する。
2015年/消防士採用試験を受けるも不合格。その後、臨時職員として市役所で勤務しながら、消防士を目指す。
2018年/広島県三原市消防本部採用試験合格! 三原市初の女性消防士となる。
2025年/現在、8年目となり現場で活躍中。女性消防士も4名に増えた。

Q:『ファイアーボーイズ ~め組の大吾~』にハマったポイントは?
A:小学5年生のころに、このドラマを観て初めて消防士という職業を知り、「こんなカッコイイ仕事があるんだ!」「自分もこんな仕事がしたい!」と思うようになりました。

Q:消防士を目指した理由を教えてください。
A:ドラマを見て、体力だけでなく頭脳も使うところが自分に合っていると思ったからです。もともと生まれ育った場所で働きたいという思いもあったため、三原市で消防士を目指すことにしました。

Q:その夢を叶えるまでにしたつらい経験は?
A:消防士の採用試験に受からなくて、大学卒業後は臨時職員として市役所で働いていたんです。そこへ合格して消防士になった人たちが挨拶や研修に来るんですよね。それを見るのはつらかったというか、とても悔しかったのを覚えています。ですが、それが「次は絶対受かってやる!」という原動力になったと思います。

Q:叶えた今、どんなことを思っていますか?
A:ドラマを観返すと、やっぱりドラマだな(笑)、と思う部分もあるんですが、自分が育った町の人のために何かしたいという気持ちは同じだなぁと思っています。

『ファイアーボーイズ 〜め組の大吾〜』
『ファイアーボーイズ〜め組の大吾〜』 完全版 DVD-BOX: 25,080 円(税込) 発売元:フジテレビ映像企画部 販売元:ポニーキャニオン ©2004フジテレビ
新宅若葉

新宅若葉

しんたく・わかば 1992年生まれ、広島県出身。大学卒業後、市役所に勤務しながら消防士を目指し、2018年に合格。広島県三原市消防本部勤務。

text by 谷美樹

好きなロボット博士は、しいていえば天馬博士。少なくとも、お茶の水博士ではない気がします(笑)
高橋 智隆 ×『鉄腕アトム』

高橋 智隆さんの画像1
ロボット電話「ロボホン」(2016年発売)に見守られながら「ロビ」(13年発売)を組み立てる、生みの親の高橋さん

〈ロボットクリエーター・高橋智隆さんの履歴書〉

1978年ごろ/幼少期、両親が読み込んでボロボロだった手塚󠄁治虫の『鉄腕アトム』を手にして夢中になると同時に、工作好きでもあったため、ロボットから釣りのルアーまでをひたすら自作する日々を送る。
1999年/大学は文系に進学するも就活に失敗したことで大反省し、「自分のやりたいこと(ロボット作り)を仕事にしよう」と開眼。1浪の末に京都大学工学部に入り直したころ、ちょうどロボットブームが到来しており「アイボ」「アシモ」などが話題に。
2003年/在学中よりロボット作りを探求しながらビジネスにも発展させ、卒業と同時にロボ・ガレージを創業。
2004年〜/二足歩行ロボット「クロイノ」が米TIME誌の「2004年の発明」に選出され、世界的に脚光を浴びる。以後、乾電池2本でグランドキャニオン登頂を成功させた「エボルタ」のほか、「キロボ」、「ロビ」など話題のロボットを次々と世に送り出す。

部品を組み立てていくと一つの命が動き出す!

それまでのロボットにはないスムーズな二足歩行を可能にした「クロイノ」、人類初のロボット宇宙飛行士「キロボ」、デアゴスティーニ最大のヒットとなった組み立てキット「ロビ」──。ロボットクリエーターの高橋智隆(たかはしともたか)さんが生み出すロボットたちは、発表されるたびに画期的なアイデアで注目を集めてきたが、ここまで多くの人々を魅了したのは、その愛らしいフォルムに負うところも大きいだろう。そう、まるで『鉄腕アトム』のアトムを思わせるような!

「両親によれば、物心ついたころには『鉄腕アトム』を読みふけっていたらしく、そこからロボット好きになったので、確かに私のまったくの原点なんですが、世代的にはちょうど『超時空要塞マクロス』あたりがリアルタイムで。ただ、そうした漫画やアニメに限らず、他のさまざまなデザインだったりプロダクトだったりに触れてきたことの影響も大きいと思います。私、"プロダクト・フェチ"なので(笑)」

そう自認するだけあって、『鉄腕アトム』で刺さったポイントも高橋さんならでは。

「手術台のようなところに寝ているアトムに天馬(てんま)博士がガチャンとレバーを下げて電流を流すと、ビリビリッとなって起きあがる──という場面があるんですが、そういうロボット開発の描写に夢中でした。当時すでに工作も好きだったので、博士なり科学者なりが登場して、"狂気の中で没頭しながらいろいろな部品を組み立てていくと、一つの命のようなものが動き出す"みたいな一連が、ビジュアルとしてすごく焼きついていて。しかもそれを博士たちが自分の手で作っているところに、すごくわくわくしたんだと思います」

高橋 智隆さんの画像2
5万台ほど世に出たロボホン。スマートフォンの技術やサービスを応用することで、ロボットは大幅に進化した

ロボット作りを仕事にする。大学4年、ある夜の決断

高橋少年の心を捉えた"自分の手でロボットを作る"シーン。それはまさに彼の未来、つまり高橋さんの現在の姿なのだが、はっきりと"その道"を目指そうと決めたのは、思いのほか遅かった。その分岐点となった「大学4年、本命企業不合格の日」のことを、高橋さんは今でもはっきりと覚えている。

「不採用の電話がかかってきたその日の夜、不得意だった高校の化学の教科書を手に取って、これを読んで理解できたらエンジニアを目指して工学部を受験し直そうと、朝までかかって全部読んで。まあ理解できたので、そこから1年、若い人たちの中、一人だけ髭ヅラで予備校に通って受験勉強をしたんです」

そうして無事、工学部に合格すると、それまで「自分の中でずっと勝手にブームだった」ロボットに、本当のブームが訪れており、高橋さんは在学中から活躍していくことになるのだった。

「たまたま運がよかったんです。例えて言えば⋯⋯スティーブ・ジョブズさんやビル・ゲイツさんてコンピューター好きのオタク少年だったじゃないですか。そうして好きなものに夢中になっているうちにちょうどブームがやってきて、ああなった。ちょっとそれに似ているかもしれません」

ロボット教室の在校生 現在、2万5000人!

そこからのロボットクリエーターとしての活躍ぶりは、冒頭の〈履歴書〉の通り、あまりに華々しいが、そのかたわらで地道に続けてきた活動が、高橋さんにはある。

「もう15年ほど、身の回りの科学に興味を持つきっかけになってもらえたらと思って子ども向けのロボット教室「ヒューマンアカデミーロボット教室」をやっているんですが、フランチャイズで広げて1700教室あるので、現在、在校している生徒だけで2万5000人ほどいます。この方式のいいところは、日本中、やがては世界中の子どもたちの科学教育の底上げができること。その中から、たとえば将棋でいえば羽生善治(はぶよしはる)さんのような天才が現れるかもしれないですしね」

この教室では、毎年ロボットアイデアコンテストを開催し、全国大会は、高橋さんが授業を持つ東京大学の安田講堂で行われるのだが、実際、「めちゃめちゃ天才少年・少女が出てきている」のだという。

「最近、東大で授業をしていても、このロボット教室がきっかけで東大工学部に入ったと言ってくれる学生に、かなり出会うようになってきました。私が『鉄腕アトム』に夢中になってロボットが好きになったように、私が作ったロボットや教室をきっかけに、その方向に進もうとしている学生がいる。前にも後ろにもつながりながら科学は進んでいくのだなということを、今、実感しているところです」

「モーターショー的な感じでたくさんのロボットが展示されているという、今となっては不思議なことでもないんですが、当時は、こんなことになるのか!と不思議な未来の話としてわくわくしました」(高橋さん)/手塚󠄁治虫『鉄腕アトム①』電光人間の巻より(講談社/手塚󠄁治虫文庫全集)
『鉄腕アトム』
Ⓒ手塚󠄁プロダクション
高橋智隆

高橋智隆

たかはし・ともたか 1975年生まれ。2003年京都大学工学部卒業と同時に「ロボ・ガレージ」を創業し京大学内入居ベンチャー第1号となる。代表作にロボット電話「ロボホン」、ロボット宇宙飛行士「キロボ」、デアゴスティーニ「週刊ロビ」、グランドキャニオン登頂「エボルタ」など。ロボカップ世界大会5年連続優勝。米TIME誌「2004年の発明」、ポピュラーサイエンス誌「未来を変える33人」に選定。開発したロボットによる5つのギネス世界記録を獲得。東京大学先端研特任准教授等を歴任し、現在(株)ロボ・ガレージ代表取締役、大阪電気通信大学客員教授、(株)MarineX取締役、グローブライド(株)社外取締役、ヒューマンアカデミーロボット教室顧問。

photograph by 梁瀬玉実  text by 塚田泉

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